ミャンマー人の気持ちを想像する

ミャンマー人との交流会を通じた気づきの話。

想像力は大切なスキルだと思います。

自分自身の主張をもったりセオリーを作ることはもっと大事だけど、でも、個人的意見を持つためには、そのロジックを支える何かしらのインプットが必要です。
そこで、想像力が問われてくると思うわけです。

あるニュースを見聞きしたときに、自分の色眼鏡だけで価値判断することと、できるだけ多くの人の気持ちを想像した上で価値判断すること、どちらが建設的で質の高いインプットになりえるでしょうか。
断然、後者だと思います。

物事を捉える姿勢について、リップマンはこのように述べています。

「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義しているものを拾い上げる。そしてこうして拾いあげたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである。」

こと、ミャンマーのニュースを事例にして考えると、リップマンの主張はとても重要な意味を持っています。
できる限り公正で、中立的にミャンマーで起きている出来事を捉えたいと思っているのですが、その際に自分のステレオタイプを自覚することは大切です。

最近活動しているミャンマー人との交流会の中で、このステレオタイプの悪癖を痛感しました。

こうした問題を解消する方法の一つとして、ミャンマー人とおしゃベリをすることはとても効果がある、と実感しています。
ミャンマー人でなくても、他者との対話を通じても、自分のステレオタイプを認識できると思います。

そうした訓練を重ねることで想像力を獲得することができ、その想像力が中立公正な主張の源泉になる。
このように思います。

自分の過ちに気づかされたり、価値観が壊れてしまうことを恐れて、対話を回避してしまうことがあります。
主張や価値観には一貫性を持たせることが正しいと考えられがちですが、でも、もっと柔軟に考えてみたいと思うのです。

私たちは全知全能の神ではありませんし、あるいは、全ての物事に一つの絶対的な解があるわけでもありません。
だから考え方や意見は、コロコロっと変えてしまっていいのではと思うわけです。

私の好きな「惑星ソラリス」という映画でもこんなセリフがあります。
「硬きものは死に、柔軟性こそが生命の源となる」

世の中に真理はなく、私たちは相対的な社会を生きています。
私たちが唯一わかっていることは「わからない」ということ。

「知らない」ということ、「わからない」ということは「恥ずかしいこと」ではないと思います。
そんな姿勢と、想像力でミャンマーのことを考えていきたいです。

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